そのまま呼ばれてるよ。」
「そのままって?」
「呼び捨て。ミツハって。」
「へー。そうなんだね。元彼には?」
「・・・ミーちゃん。」
彼女は照れ臭そうに答えた。私は和やかに頷いた。意識の外にあった、彼女の名を確認できた瞬間だった。名前なんて単なる記号にすぎない。しかし、それはとても心地が良い記号であり、和みにおいて重要な意味を持っていた。人は自分の名前を呼ばれたとき、一種の安息感がもたらされる。そんな心理学的な統計調査に基づくデータを、どこかの書籍で以前目にして、今日まで覚えていた。あるいは、思い出したのかも知れない。フラッシュバックだ。
「ミーちゃんとか可愛いね。」
私ははニヤリとしながら言った。ピックアップには「ネグ」という概念がある。彼女のことを馬鹿にするかのような発言や行動をあえて取り、主導権を握るためのテクニックの一つだ。ただし、空気が読めないと、ただいたずらに女性を傷付けかねない。私は「カワイイ」をネグにしばしば用いる。同じ言葉でも、言うタイミングや声色によって全く違う意味に聞こえる。褒めているともバカにしているとも取れる言い方をすることによって、相手に考ええるきっかけを作り、こちらのペースに引き込んでいく。
長いエスカレーターを上り、チケット売り場まで到着した。彼女がお手洗いに行っている隙にチケットを購入して、何食わぬ顔でソファでくつろいでいた。しばらくすると、彼女がこちらに駆け寄ってきた。チケット見せる。
「何々??できる男かよっ!(笑)」
彼女はくしゃっとした笑顔で、私はの行動に対して彼女なりの賛辞を送った。私はも笑顔になった。まるで、共鳴している音叉みたいに。初めて会話した時から考えると、随分と打ち解けた感じがした。
そのまま開始時刻まで少し時間があったので二人でフロア内を物色し始めた。入り口左手に、グミなどのお菓子を量り売りしているコーナーがある。そこで、彼女と少しだけ昔話をした。小さい頃に近所にあった駄菓子屋のこと、昔仲の良かった男友達といつも競争して帰っていたこと。他愛のない、あるいは何の変哲もないありきたりな思い出話だが、何だか居心地が良かった。
「少しお腹減らない?何か買おうよ。チケット出してもらったから、こっちは私が払うね。」
彼女はそう言いながら、頭上の掲示板のメニューをゆっくりと眺めていた。食べたいものを告げ、彼女がそれを注文する。程なくして、ドリンクと軽食がトレイの上に並ぶ。それは店員から彼女に、彼女から私に手渡しで運ばれてきた。まるでバケツリレーしているみたいに。
私はトレイを持ちながら、チケットをジャケットのポケットから取り出し、書いてあるスクリーンナンバーとにらめっこしていた。周囲にチケットと同じ部屋番号はすぐに見つかった。彼女に合図を送ると、私の後をふわりとついてきた。
映画は思ったほどではなかった。しかし、全く楽しめなかったかと言われれば、そういう訳でもない。そんな印象の作品。勿論、価値観は人それぞれだが、私は自分よりも一緒に同じものを見た彼女の感想が気になった。
「どうだった?ぶっちゃけ。」
私は隣にいる彼女に、なるべく横を見ないようにして聞いた。
「う〜ん。微妙ー?」
彼女は笑いながら答えた。どうやら、私と同じ感想を彼女も持っていたらしい。価値観が合う、というのは大事だ。私は彼女に最低限の配慮をしつつ、なるべく本音で話すようにした。彼女は私に共感を示し、また彼女の意見も私にとって純粋に頷けるものだった。「馬が合う」というのはきっとこういう事だろう、とも思った。
下りエスカレーターを降りながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。街の雑多な音のボリュームが段々と大きくなっていく。映画の感想を語らいながら、靖国通りでタクシーに手を挙げる。彼女を促すと、そのまま二人を乗せたタクシーが走り出した。行き先は私だけが知っていた。
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